本校の歴史

中筋小学校のあゆみ

(1) 学校ができるまで
   
新和・原小学校の児童数の増加
  わたしたちの中筋小学校が開校されるまでは,中筋・東野地区の児童は新和小学校(現在の古市小学校)へ,東原地区の児童は原小学校へ通っていました。ところが,安古市町・祇園町はともに昭和39年ごろから広島市のベッドタウンとして急に人口がふくれあがりました。両校ともどんどん児童数が増え続けました。教室の増築が間に合わないので,児童たちは,しかたなくプレハブ教室で勉強しなければなりません。プレハブ教室は,夏は暑いし,冬の冷え込みはとても厳しいものでした。また,隣の教室の音や話し声もつつぬけになるなど,学習するのに困ることがたくさんありました。落ち着いて学習したり,のびのびと遊んだりすることができなくなったのです。
   
地域の人々の願い
  当時の古川は,梅雨や台風の季節に大雨が降るとすぐに増水し,三川橋や大正橋がつかって人が通れなくなりました。そうなると大変です。学校に行っていた子どもたちは家に帰れなくなります。それで,新和小学校では中筋・東野の児童だけ,原小学校では東原の児童だけが早く家に帰されていました。昭和47年の集中豪雨では,大正橋がつかってしまって,東原の子どもたちは原小学校に登校できませんでした。
  地域の人々は,どんな時でも安心して子どもたちを学校に通わせることができるように,この川の内地区に学校を建てたいと望むようになりました。それは同時に,昔この地域にあった東野小学校や東原小学校に再建の夢につながるものでもありました。
  このような理由により,旧祇園町・旧安古市町は,広島市と合併する時に新和第二小学校(現在の中筋小学校)を建設することを広島市と約束したのです。広島市は,昭和50年から,2年後の開校を目指して準備を始めました。
   
地域の人々の協力
  学校を建てるにあたって一番大きな問題となったのは,学校用地のことでした。いろいろな調査をもとにして決められた場所(今の中筋小学校の位置)は,当時10軒余りの農家の方が耕しておられた田んぼでした。長い間大切に守ってこられた土地です。手放すのは本当につらいことでした。しかし,立派な小学校を建てるために自分たちも協力したいと,涙をのんで土地をゆずってくださいました。
  それから,半年に及ぶ校舎の建築工事の騒音や粉じんは,すさまじいものでした。資材や機会を運ぶトラックも何台となく入ってきました。しかし,地域の人たちは,この地域の中心となる自分たちの学校ができるのだと温かく見守ってくださいました。
(2) 中筋小学校の誕生
  こうして,わたしたちの中筋小学校は,地域の人々の熱い思いと多くの人々の努力によって,開校の日を迎えることができました。中筋小学校という名前は,校舎の建つ場所である中筋の地名をとって名づけられました。